衝撃デビューを果たしたものの・・・・
そして迎えて2004年シーズン。
オープン戦では低調なパフォーマンスであったが、シーズンに入り、
松井稼頭央選手はいきなりメジャーに衝撃を与えるパフォーマンスを見せる。
敵地、アトランタで迎えたメジャー開幕戦。
一番ショートで出場した松井稼選手。
初打席初球ホームランをセンターに叩き込み、衝撃メジャーデビュー。

メジャーのルーキーが初打席初球ホームランはMLB史上14人目であるが、開幕戦では史上初。開幕戦で大暴れし、猛打賞をマーク。
衝撃的なメジャーリーグに全米が驚愕。

また日本からすごい選手が来たぞ!!と絶賛の嵐。
これからシーズンでどんな活躍をしてくれるのか期待は高まる一方であったが・・・・・。

しかし、ここから松井稼頭央選手は苦戦し、メジャーでの試練の日々を迎える。
4月開幕から好調を見せたものの、
徐々にメジャー特有のストライクゾーンや攻め方に苦戦。
開幕戦で見せたような打撃ができず、打率も急降下。
特に外角のボールに苦戦。引っ掛けるバッティングを繰り返してしまい打撃不振に。
特にメジャーで松井稼頭央選手を苦しめたのが守備。

守備に定評があったショートの守備でもエラーを連発
ライオンズ時代は西武ドームが人工芝。そしてメッツのシェイスタジアムは天然芝。
今までと違う環境での守備機会もあり、持ち味の身体能力、そして強肩を生かすことができず守備面でも苦戦を強いられていた。
徐々に復調を見せる場面もあったが、
7月のヤンキースとのサブウェイシリーズでは2本ホームランを放ちなど、
初めてのメジャーの舞台で片鱗ぶりは見せたものの、その後もシーズン通して苦戦。

日本時代のような打撃はできず。
そして8月には腰を痛め、戦線離脱。
メジャー挑戦1年目は、
114試合で、打率272 7本塁打、そして持ち味の俊足も生かせず、17盗塁
松井稼頭央選手のメジャー1年目は不本意なシーズンとなり、また期待された活躍ができなった。
翌2005年は前年の怪我や苦戦したことにより、奮起を目指し挑んだ2005年シーズンであったが、
開幕戦で初打席でホームランを放つなど、

今シーズンは一味違う活躍を予感せるパフォーマンスであったが、再び怪我に戦線離脱。
そして復帰後も再び、度重なる怪我により、
定位置として与えられていたショートのポジションを剥奪。
セカンドにコンバートされるなど、

メジャー2年目は成績もルーキーイヤーを下回るなど、再び苦しいシーズンとなった。
メジャー3年目、2006年シーズンもオープン戦から怪我でマイナースタート。
復帰戦でホームランを放つも、打撃不振に陥り、打率.200。

メジャー移籍後、日本時代のようなプレーができず、輝きを失ってしまっていた・・・
そんな松井稼頭央選手への評価は年々厳しいものとなり、
翌年2007年はロッキーズにトレード。

メッツでの日々は期待された活躍ができなかった。
メッツの本拠地ではブーイングが起こるなど、辛口なニューヨーカーをうならせる活躍ができず、
ロッキーズ移籍後はマイナーでプレーとなり、

日本時代の輝かしい活躍は何処へやらという存在になっていたが、
しかし松井稼頭央選手はマイナーという環境に腐らず、
ストイックに野球と向き合い続け、シーズン終盤にメジャー復帰。
出場32試合で打率345 2本塁打 19打点 8盗塁をマークし、

初めてメジャーでらしさを発揮。
翌2007年は怪我で出遅れるものの、復帰後はロッキーズの2番打者として攻守に活躍。
ロッキーズの快進撃の立役者として活躍し、ワールドシリーズに出場。
ワールドシリーズでは日本時代のチームメート、松坂大輔投手とメジャーの舞台で初対決。

ワールドシリーズ日本人対決を実現。
ワールドシリーズ制覇とはならなかったが、
2007年は出場試合が104試合であったが,、いぶし銀の活躍。

二塁の守備は安定し、ロッキーズの攻守の要として存在感を発揮。
2007年はワールドシリーズを経験するなど、メジャーで素晴らしい経験をした。

しかしながら、松井稼頭央選手のメジャー時代は怪我との戦いであった。
2007年のオフにFAとなりヒューストン・アストロズに移籍するも、
移籍1年目から怪我。
アストロズ1年目2008年は打率.293、
そして2009年は123試合に出場するもこの年も怪我、
日米通算2000本安打達成するも、シーズン打率.250と低迷。

翌年2009年もこれまでの度重なる怪我により、チーム内での評価を獲得できず。
出場機会が限定。そして、シーズン途中に戦力外。

その後古巣のロッキーズとマイナー契約を結ぶものの、メジャー復帰はできず。
その年のオフに日本球界復帰。
日本最高のショートストップはメジャーの舞台で、その片鱗ぶりも見せることもできず。また度重なる怪我により、メジャーの環境に苦戦。
メジャー7年間の成績は、
630試合 打数2302 安打615本 打率.267 32本塁打 211打点 102盗塁
と物足りないものであった。
正直、松井稼頭央選手のメジャーで活躍できなかったのは予想外であった。
日本時代の松井稼頭央は誰よりもメジャー関係者をうならせたこともあり、全く活躍していないわけだはないが、
毎年のように怪我を繰り返し故障者リスト入りしたのは痛かった。
当初ショートの守備からコンバートしたセカンドでも存在感を示したが、打撃も期待はずれ。
メジャー7年間は寂しいものとなった。
松井稼頭央選手が挑んだメジャーでは特に守備で苦戦。

日本時代は華麗な守備、とずば抜けた身体能力、
そして強肩で守備でも輝きを放っていた松井稼頭央選手であったが・・・
メジャーではその面影はなかった。
メジャーの内野はあたりも強く、スライディングでの交錯も多い。

持ち味の守備も激しいボディーコンタクトが強いられることもあり、
怪我のきっかけになっていた。
その影響もあり、華麗さが魅力だった守備では萎縮し、エラーを連発していた印象。
日本では球界最高と言われた身体能力の持ち主。

しかしメジャーリーグの舞台では松井選手は平均以下という現実が待っていた。
松井選手を超える身体能力を持った選手はゴロゴロいた。
特にメジャーのショートは身体能力に特化したものが与えられるポジション。

そう、バケモノレベルしかいないのがメジャーの内野。
そんなバケモノだらけのポジションで松井選手はメジャーで、
実力を発揮することすらできなかった。
やはり度重なる怪我により、そしてメジャーへの入団の経緯の高評価が、

松井選手にプレッシャーとしてのしかかっていたのかもしれない。
そして、打撃でも日本時代のような活躍をメジャーで見せることはできなかった。

苦戦していた守備につられるように、打撃にも影響を与えていた。
メジャー移籍前の長打力を増したライオンズ時代のような姿はなく、

2002年には36本塁打を放ち、これからどんな選手になっていくのかと思っていたが、メジャーでは二桁本塁打も打つことができなかった。
しかしながら、松井稼頭央選手は、
メジャー挑戦で自分自身を知る機会となっていると語っている。

メジャー挑戦で全てにおいて力不足を痛感し、メジャーに挑戦せずに日本にいたら、勘違いしたままであったと語っているだけに、
野球の最高峰の舞台をマジマジと体感したことのより、自分の本当の実力を知ったのだろうか。
メジャー移籍前の松井稼頭央選手は凄まじものがあっただけに、

メジャーで活躍できなかったのは本当に予想外であった。
度重なる怪我は打撃にも影響を与え、日本時代のような猛打を見せることはできず。
それは日本復帰後も打撃はなりを潜めた。
楽天移籍後もライオンズ時代のような打撃はできず、平凡な選手となっていたことは寂しいものであった。
それだけメジャーリーグという環境はハード、身を削るほどの化け物が集まる環境。
それは松井稼頭央選手だけではない。
その後、挑戦した日本人内野手はメジャーの内野の中で日本時代のような活躍をしたものはいない。

これまで数多くの日本人内野手がメジャーへ挑んでいるが、活躍したのは数年だけ。
ヤクルトで44本塁打を放つなど、球界屈指のスラッガーとして活躍した岩村明憲選手も

メジャー移籍後は自己最高が7本塁打と二桁すら打てなかったという事実。
現在も日本人内野手がメジャーの舞台で大活躍した例はない。
それだけメジャーの内野で活躍するのは至難の技なのだ。
バケモノレベルの身体能力がなければ、務まらないポジション。
松井稼頭央という球界最高の身体能力を持った選手ですら、

通用しなかったという事実。
それだけ松井稼頭央という存在は日本球界では最高の最高を持った選手。
そんな選手が通用しなかったのだから。
メジャーリーグはすごいところであると再認識するきっかけになったが・・・・。
松井稼頭央選手は日本時代は球界の顔にまで成長していたほどの選手。
さらなる高みを目指し、挑んだメジャーの舞台。
そのメジャーでの日々は苦しいものであった。
しかし、己をレベルの高い環境に挑戦したいという気持ちは普通であろう。
自分の高みを目指し、挑んだことに意義がある。
松井稼頭央選手という存在は日本最高の選手であったことは変わりない。
これからも語り継がれる最高の選手だ。

しかし、怪我がなければもう少しやれたのではないかと・・・、考えてしまうのは事実・・・。
それだけ最高の才能を持った球界最高の選手であっただけに、
メジャー時代は寂しいものであった。
松井稼頭央選手に関するまとめ
いかがでしたでしょうか。
球界最高のショート、松井稼頭央選手。
現役時代、さらなる高いを目指してのメジャー挑戦。
結果は怪我やメジャーの環境に適応できず、
活躍することはできなかったが、
挑んだ勇姿は忘れない。
