球界最高の右打者は高校時代どんな選手??
内川聖一
ソフトバンクホークスの攻撃の要、
そして球界最高の右打者と称される男は、
高校時代どんな選手であったのでしょうか。
今回は内川聖一選手の高校時代の成績や活躍ぶりをPICKUP!!していきましょう。
目次
内川聖一選手にWiki的プロフィール

名前 内川聖一(うちかわ せいいち)
出身地 大分県大分市
生年月日 1982年8月4日
身長 185cm
体重 92kg
ポジション 内野手
内川聖一 高校時代どんな選手?? 高校での活躍や成績をPICKUP!!

球界最高に右打者
内川聖一
それは長いプロ野球界の歴史の中で最高の右打者と言われるほど。
華麗なバッティングでヒット量産し、
球界最高峰の打撃でトップを走り続けてきた偉大なバットマン。
特に右方向への打撃は球界最高と言われ、
両リーグで首位打者を獲得した芸術的なバッティングは圧巻だ。
現在、ベテランの域に達しても健在。

そんな球界最高の右バッターは高校時代どんな選手であったのでしょうか。
今回は、福岡ソフトバンクホークスの内川聖一選手に高校時代の成績や活躍ぶりをPICKUP!!
高校時代から天才的な打撃!?

内川聖一選手は大分県出身。
高校はは大分県の地元、大分工業高校。
内川選手は高校時代からスバ抜けた存在であり、
大分県では屈指の高打者として、高校時代から名を馳せた選手。
しかし高校一年生から怪我に泣かれていた内川選手。
内川選手は高校時代、左かかとに骨に穴が開く、骨嚢腫という病気で、
骨嚢腫は骨の中にまた骨に広い範囲にわたって、破壊が起こり、空洞ができてしまう病気であり、
水が溜まる嚢胞(水風船のようなものが)生じる症状や、骨に腫瘍のようなものができ、圧迫され痛みを伴う病気。
現在でも難病なのでしょうか。
思うようなプレーができず、また骨嚢腫により歩くこともままならないこともあり、病気と闘いながら、そして3度も手術もしながらの野球を続けていた。
そんな中でも突出していた才能、そして非凡なバッティング。

骨嚢腫という病気を戦いながら、内川選手は高校時代43本塁打を放つほどのスラッガーとして活躍。
高校時代はショートを守り、卓越した打撃は高校時代から物が違った。
特に現在でも内川選手に代名詞であり、球界最高の右方向へのバッティングは高校時代から素晴らしいものがあった。
卓越したバットコントロールは当時から健在。
怪我、持病に泣かされ続けた内川選手は、怪我が言えるまでの2年の秋まで病気により、一定期間試合に出場できない期間もありながら、
怪我から乗り越えた2年生の秋から、43本ものホームランを量産。
才能はやはりズバ抜けていた。

プロのスカウトからも評価されるほどの逸材であった。
そんな内川選手は怪我等もあり、高校3年間甲子園とは無縁。
怪我なければもっと全国的にも際立つ存在になっていたかもしれませんが、
それだけ、全国的には無名ながらも、ズバ抜けた野球センスを持った高校時代。
しかし、本人は大学進学を考えていたとのこと。

周囲や家族も高卒からのプロ入りを反対。
当時の内川選手の目標は大学で日本代表のユニフォームを着ることであり、
内川選手自身は高卒からプロ入りするほどの実力があるとは思えず、現時点ではレベルの高い環境で、プロでやることは怖くてプレーできないと感じるほど。
高校3年間、病気との付き合いながらプレーしたいたこともあり、
その時にはプロ入りという判断はできず、スカウトにも断りを入れていた。
内川選手は自分自身の立ち位置をしっかり見極めての決断だったのでしょう。
しかし、そんな中、熱心に横浜ベイスターズのスカウトが熱心に内川選手にプロ入りした際のプランを考えてくれるなど、
また足の病気への理解、そして治療の面もサポートするということも球団側からの提案もあり、
それまで大学進学を暫定路線だった内川選手は急遽、ドラフト直前にプロ入りを決断。
他の球団は内川選手が大学進学するという決断もあり、横浜以外にも熱心だった広島も指名を回避している中、
結果、ドラフト会議でもっとも熱心だった横浜ベイスターズが1位指名。

高校時代の内川選手は甲子園出場がなくても、プロ12球団から挨拶があったほどの選手。
ベイスターズが1位指名しなければ、他球団も指名していた可能性もありますが、
高校時代の怪我で苦しんだ内川選手にもっとも熱心だったベイスターズがサポートにより、プロ入りが実現した。
遅咲きながら開花した才能。

そしてプロ入り後は、着実に一歩づつ結果を残し、
プロ8年目にシーズン打率.378、右打者最高打率をマークし、大ブレーク。
その後は、球界を代表する好打者へ成長。
遅咲きであったが、今や、球界最高の右打者と称されるほどの大打者となった。
今や、誰もが知る最高の選手の一人であるが、
そんな内川選手プロ入り後数年間はがむしゃらに毎日必死だったという。

卓越した才能を持った選手でさえ、必死に練習に明け暮れる日々。
確かにプロ入り後、レギュラー獲得まで時間がかかっており、
内川選手は同世代である、当時西武ライオンズで早くから頭角を現していた中島裕之選手などが活躍しているのに、

置いていかれる感があったと語っており、焦りなどもあったのだろう。
高校時代からの足の病気や、プロ入り後も怪我や病気するなど、体調不良に悩まされるなど、
順風満々ではなかったが、
そんな中でも直向きに野球と向き合ったからこそ。
非凡な才能を開花させ、球界最高の右打者と言われる存在となった。
しかしながら、高校時代から12球団もスカウトが来るほどの選手。

現在の活躍ぶりは才能に溺れることなく、足もとしっかり見据えていたからこそ。
まだまだ現役であるが、プロ野球史上最高の右打者とも呼び声高い存在。
現在の姿は高校時代から変わらない謙虚さと直向きさか。

だからこそ、現在の姿。
本当に素晴らしい選手。
内川聖一選手に関するまとめ
いかがでしたでしょうか。
球界を代表する最高の右打者。
今や、歴代最高の右打者の一人となった内川聖一選手。
高校時代からスバ抜けた存在であったが、
怪我に苦しんだ時期でもある。
しかし、己を信じたこと、そして周りのサポート、
出会いにより、右と才能を開花させた。
本当に素晴らしい選手。
これからも匠な打撃技術を魅せて欲しい。
